現地を見て、知って、感じてほしい
貧しい大堀村で一大産業を興す
1690年(江戸時代前期)、相馬藩士半谷休閑の下僕佐馬が陶芸の技術を学び休閑に伝え、休閑は村の一大産業にしようと、一子相伝の誓約を交わしながら7人に伝授し、馬の絵を描いて「大堀佐馬焼茶碗」として売り出します。
薄手で精巧、見事な文様の大堀相馬焼は民衆に愛用され、やがて近隣10ヶ村の100軒以上の窯元で作られるようになり、江戸に千石船などで運ばれました。大堀村は水田が少なく、山の畑で煙草栽培もする貧しい地域でしたが、大勢の人が働くようになり活気にあふれる地域になたのです。
「時代の荒波を地域の力で乗り越える」
明治になると、支援をしていた相馬藩が無くなるという危機が訪れます。窯元は半減しますが、二重焼の技術を生み出し、馬の絵、青ひびの特徴を持つ焼物が作れれ大ヒットします。さらに、大堀陶器同業組合を組織し産業を近代化します。
しかし危機を再び迎えます。大正から昭和初期にかけての不況で窯元は20軒に減少します。さらに、第二次世界大戦中は軍需産業以外は統制され、窯は閉鎖させられます。それでも共同の窯を1基築き、伝統の灯を守り続けたのです。
戦後になると、大堀相馬焼は外国で「ダブルカップ」と呼ばれ愛用されるようになり活気を取り戻します。
原発事故でかつてない危機に
2011年の東京電力福島第一原発事故で大堀地区などは人が住めなくなりました。23軒あった窯元は11軒になり、それぞれの場所で窯を再開し継承の努力をしていますが、大堀相馬焼は名前の由来の産地を失い、かつてない危機に直l面しています。
大堀相馬焼の郷「陶魂会」